monsutela’s blog

忘却録と夜の徒然なるままに

何が丁寧な暮らしを憧れさせるのか

よく聞く言葉であり、多くの人が憧れるものではなかろうか。その実、その憧れを実現できている人は恐らくそう多くはないと思われる。私もその一人であり、多分と言っていいが平均的な部屋よりも散らかっている自信がある。そんな私はこういった暮らしには程遠いのかとも思うが、この間面白い話を聞いた。

 

「缶の飲み物に直接口をつけるな」

 

ほぅ。と思った。

同時に何故??という疑問が湧き上がる。(直接聞いたわけでない又聞きなので理由や詳細は分からないが)

 

確かに直接缶に口付けるのは、どこか品の無い感じはあるし、昨今の感染対策的な事を言えば手の触れる部分に直接口をつけるのは如何なものかとも思う。しかし恐らく彼の人が言うのは前者を意味する指摘なのであろう。

丁寧な暮らしも同様、意味もなく、ただ工程が多く手間もかかる動作を挟むことでどこか美しく見えている節もある。

 

そういうことなのだろうか。

 

しかし何故、丁寧に見えるのか。ただ手間がかかることだけが理由では無いのではなかろうか。そんなことを思う。

 

手間をかける、手軽さを排除する、工程を多く踏む、マナーとしての美しさ、衛生的な美しさ、多くの人がやろうと思って出来ない面倒さ故の憧れ、洗練された自分の世界観に他の要素を持ち込ませない………………

 

何故ひとは丁寧な暮らしに憧れるのか

小学校高学年の魔法

ふと立ち戻り、見返すのは1番初めの記事。

思えば最初は非常にフラットな軽いタッチで記事を書いていたものだと思い至る。

突如この文体になったようにも見えるが、もともとこの文体で文章を書くことも多く、自分としてはむしろ最初の記事の方が異質だと感じるほどにこの文体は自然なものなのである。

 

古めかしい…とは思わないが、新聞のようであり、しかし比喩や回りくどい表現を用いる様は昭和初期あたりの文豪のような文体と言われたら否定は出来ない。所謂、夏目漱石川端康成太宰治…のような時代であろうか。しかしこれらの文豪の作品も大して知っているわけでもなく、代表作をパラっと読んだことがある程度に過ぎない。ただこの文体で綴る自分の言葉は、一歩一歩噛み締めているようでどこか心地好いのだ。(だが後から見返したらまた叫びたい衝動に駆られるに違いない)

 

好きな作品もそのうち残したいと考えているが、ここで簡単に題名だけあげるのであれば夢十夜がやはり一番に浮かんでくる。何が言いたいのか、結局どうなったのか、何処が面白いのか、、語りようがない。今も昔も不思議な作品だ。

少し前に初めて斜陽も読んだ。あまりきちんとした内容は残っていないのだが、衝撃的で満足感があったというのが読了後の感想だった。

 

この文体の大元は何処か。

そう問うとやはり浮かんでくるのは読書家だった小学生の自分の姿だ。図書館に通い詰め、親の本棚を漁り、登下校休み時間構わず本を読んでいた気がする。

いまの文章ほど比喩や回りくどさは無いにしろ、当時から〜ですます調で物を書くというのはあまり慣れない作業であったのは記憶している。少なくとも高学年の頃には〜である〜であった等と、一際偉そうな文書を書く子どもであったろう。

日記帳の話と言い、小学校時代に受けた影響というのは大人の自分の根を形成する重要な時期だったのだと感じられる。

ふとその頃に戻りたいと思うこともあるが、いまその時代に戻ったとて、その頃のように熱中して何かに没頭することはないだろうと思う。そう考えると、その時代に文化に触れ、その感性を育んでくれた親や周囲の人と、自分に感謝を述べておきたい。

どの時代も側にある存在

この備忘録ではよく小学〜高校時代の回想をよく綴っている。しかしこれらの時代と今の時代、俯瞰してみるとどの時代にも興じている趣味…というか生活にある習慣があるとふと思った。

 

とある人が、「小中高どの時代も図書館に通っていた」と話していた。そう、私がどの時代も生活にある場所は図書館なのであるが、図書館っていつもいる人もいれば、利用しない人は全くと言っていいほど利用しない利用したこともない人も多いのではないかと思ったわけだ。

私も町の図書館にちらほら足を運ぶ時があるのだが、いつも同じ時間同じ場所にいる人がいる。それはどの時代の図書館にもいた。いつも何をしているのかあまり覗き込むなど無粋なことはしていないが、大抵の場合勉強に熱を入れる学生であったり、何かを調べたり探したり…というわけでもないただただ読書を趣味とする人であることが多い。中には読書より本を用いて調べることを主としている人もいたから図書館の利用方法は人それぞれである。しかしこれだけ図書館に熱を持った人もいれば、周囲で話を聞くと大して生活の中に本がない人もいるわけだ。

かく言う私も定期的に図書館に通う熱心な読書家までではないので、たまに気が向いたら利用している利用客に過ぎないのであるが、図書館以外にも部屋には本が積み重なっていたり本達が収納を圧迫している。それは町の本屋でふと手にしたものであったり、ネットで欲しいと買い物求めたものであったり、はたまたどこかで時間つぶしに購入した本であったりするわけだ。

 

熱心に図書館に通う利用客でないにしろ、日常的に本がある生活というのはどこか当たり前であり、むしろ本が無かった時期にはなにか物足りなさがあった記憶を鑑みると、私にとって本はいつも手に取れる・取れるべきである側にあって欲しい存在なのだとふとそのとある人の言葉で思い出した。

本を手に取る機会が少な無かった時代というのはまあ、高校から先の進学時代なのだが、それでも近くの図書館に行って調べ物をしたり、勉強のために1日中図書館にこもってそれを活用したりということはしていたので、読むほどでは無いにしろ本や図書館は身近な存在であった。

…ああ、もしかして昨日書いた雑誌を作りたいという話も本という形が好きという点もあるのかもしれない………(と、ふと思った)

 

何が言いたいわけでもないまさに自分のための備忘録になってしまったが、ふと誰しも本や図書館が生活に組み込まれているわけではないことに気付いた日であった。

表現

最近、というほど最近の出来事でもないが、ふと「自分の雑誌を作ってみたい」と思っている。何を言い出すのか。有名人などであればあーはいはいとなりそうなものであるが、一般人でその発想はなかなかピンとこない。

 

そのままの意味で自分を特集した記事を書き写真を撮り、デザインや構成まで全て自分で作ってみたいと言っているだけで、決してそれを世に出したいと思っているわけではないのでナルシストなどと思われないよう。それでも尚、自分を使うとは一体全体どんなナルシストだと思われよう。きっと私も他人がそのように言っている現場に出会したらそんな風に思うに違いない。

 

さて、何故私がそんなナルシストなのかという点はさて置き、何故雑誌などとナルシスト行為をしたいのかと言うと、「表現する」という点に置いて面白そうな媒体だと言うことである。

何度も言うが私はただの一般人で、何を?と思われようが、自分自身を使って画を作り込み、自分ワールドのような文章を添付し、そしてその世界観をさらに書き込むようにデザインできる雑誌は面白そうではないか。

自分自身を使うことで考えるその世界を表現出来る、きっと音楽やら芸術やらの趣向がある人には伝わるのでは無かろうか。

 

表現の媒体において何故雑誌を選ぶかという点については、絵はあまり得意ではないのでせめてもの写真で画を構成でき、また大して面白くない文章(自分オリジナルの雑誌なのでなんとなくデザインの一部かのように添えておく程度でいいと思ってる)を添えてそれらしくなり、また好みの様子に整えられる程度にどうにかなりそうなデザインという、まあそこそこ形になりそうな要素を持ち合わせていたから、というのが理由か。※ちなみに私の音楽センスは壊滅的であり、絵画センスは好きなのにどーにも良さげにならないというセンスの持ち主なので、他の表現方法を用いるにはハードルが高い。

そうなってくると、次なるハードルは自分の容姿や写真になってくるが、幸い写真は趣味であった時代があり、昨今では手軽に写真を撮ることが出来るようになっているので、そこは他の出来合のものなんかを参考にどうにかなりそうである。そして自身の容姿という点では…まぁ、世に出すものではないので自分が我慢するなり強めの加工を施すなりしてなんとかしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

何故こんな事をわざわざ残すのかというと、そんなこんなの面白おかしい画策をしているうちに、考えてもいなかった方面に公な雑誌デビューを果してしまったので頭を抱えているところなのである。

これも1つの備忘録として残しておこう(未来の自分へ)

 

 

下手に励ましてはいけない

「頑張る」

応援や励ましで使われ、「頑張ってる」という言葉は褒め言葉で使われることが多いのではないだろうか。

日本語は複雑怪奇で空気や行間を読むそれはそれは面倒な言語なのだから、一概に言えないと言ってしまえば今日の話はそれで終わろう。

 

 

さて、そんな「頑張る」という言葉について、よく「既に頑張っている人に頑張ってと言ってはいけない」などと言うだろう。受け取る立場からすれば既に頑張っているのだから、これ以上頑張らせようとしてくる言葉の発信者には何かしらの違和感を覚えるのは当然の事とも言える。しかし、だからといって「頑張ってるのだから頑張らなくてもいい」と言って、癒やされる人、はたまたネガティブに捉える人の二択に分かれてしまうのでは無かろうか。

休みたい人にとっては前者の如く、「もう頑張らなくていいんだ」と心の安らぎを覚えるだろう。しかしそれをネガティブに捉えたとき、何を頑張っていたのか、という点に注目したい。

 

頑張っていたのが生きる事だったとき

 

果たして「頑張っていますね」と言って良いものか。「頑張りすぎず無理なく」と、言っていいのだろうか。「無理なく」ってなんだ?ふと「無理なく」などと思った自分の思考に殺意が湧いてきた。

 

さて。頑張りすぎなくていいと言って、もしその人が本当に素直にそのままの意味で受け取った場合、その人が頑張らなくなった先に行き着くのは何処か

 

 

 

 

言葉とはつくづく難しいものである。

 

しなきゃ

今週のお題 私がとらわれていた「しなきゃ」

 

自戒を込めて書き残そう。

先日、自分のために休日していることを話していた。周りからはスポーツなどの趣味に興じたり、家族友人と出掛けたりなどという話があがり、それはそれで良い休日だと思ったものである。

かくいう私が何を話したかといえば、趣味がほしい、休日にやることが欲しいなどというまたくどいことを話していたのだが、ふと「自分のために」やるなら何をしなくても良いのでは無いかとも思ってきた。

 

「自分のためにのんびりする」

 

休日とあらば、休んだり遊んだり、何かしらをやるべき、休日を有意義に使わなくては、そんな風にとらわれがちであったが、別にそんなことしなくてもいいように過ごせばいいのだ。

なにかストレスがあって発散に趣味が欲しいとか、虚無を埋めるのに趣味が欲しい、そんなことであれば趣味探しをしてみてもいいと思うが、必要性がなければ別にこれが!と言うように頑張らなくていいのではないかと思う。

休日に予定を入れるために予定を作ったり、これという予定がないので仕事出てもいいといったような事もあった。それもそれで良いのであれば構わないが、以前「ゴロゴロしたりするのも1つの大事な予定」と言うのを目にし、それ以来それも自分の予定として組んでいる節がある。

頑張りすぎなくていい、有意義に過ごさなきゃと思わなくてもいい。

ゆるりと参りましょう

 

 

 

※と、言いつつ趣味が欲しいと言うのは大きなはまれるものに出会ってみたいという憧れもあって、それはそれで欲しいものではあるので趣味探しは続く。

子供の憧れ

先日ラジオを聞いていてふと共感した。

 

コーヒーゼリー

よくスーパーなどでも三連プッチンプリンのように売られているコーヒーゼリーがあるだろう。あれは子供の憧れだった。

ラジオの投稿は「子供の頃、あのコーヒーゼリーは大人の特権のような憧れがあった。そして初めて口にした時の驚きといったら…」と言う内容だった。私自身もまさに同じ体験をしていたのだ。

 

あの三連コーヒーゼリーには小さなミルクがついている。あのミルクの存在が特別感を演出する1つの要素だ。そして見た目からして黒くて得体しれない様相であるが、そのシックさがまた大人っぽく、コーヒー味であるという子供にはあまり想像しにくいというもの憧れの的であったかもしれない。

私の家はプッチンプリンやプッチンゼリーのようなおやつが冷蔵庫にある中に、たまに親用のそれが入っていた。コーヒー=苦いイメージがあって、それに手を出すことはしなかったのだが、冷蔵庫にあるミルク付きのそれはどうしても美味しそうに見えたのだ。

 

とある日、学校から帰宅して覗いた冷蔵庫に1個食べて残り2個となったそれが入っていた。他のおやつが無かったのもあったのかもしれない。憧れのそれを食べてみることにした。(親用とは言え、特に食べてはいけないと言われていたわけではない。ただ自分が大人用と思っていただけだったので悪いことをしているわけではない。)

蓋を取ると香るコーヒーの芳ばしい香りと透き通る黒、子供心からしてそれは憧れのひとくちだった。ミルクも忘れずに入れる。とろぉ〜っとゆっくり表面に広がっていく白い濃厚な色。このときは、コーヒー味だとしても甘く味付けされているものだと信じて疑わなかった。

憧れの一口をスプーンですくう。

すくった断面の凸凹をゆっくりミルクが流れ落ち、やがてその断面を白く覆っていく。

 

口に入れると広がるのはミルクのまろやかさとほんの少しのささやかな甘み、そして苦いと言うほど苦くもないがほろ苦く甘くもない芳ばしい無味のゼリーだった。

 

……

 

憧れの味とはこんなものだったか。

甘さを期待していたから予想外だった。そして憧れのミルクも想像していた生クリームのようなクリームではなかった。ゼリーの味は、苦いにしてもまるで水じゃないか。

考えるとコーヒーはプリンのように牛乳を触媒としているのではないから水で正解なのだが、そのファーストショックは大きかった。

 

 

そんな期待と憧れのギャップを感じることはあるだろうか。大人になって時々出会うそれたちもあるだろう。しかし子供の頃の驚きというのは鮮明だ。このギャップは今なお記憶に残っていたのだ。ハンドルを握り、信号待ちの私の脳内に、ふととある日の放課後が蘇った。