monsutela’s blog

忘却録と夜の徒然なるままに

小学校高学年の魔法

ふと立ち戻り、見返すのは1番初めの記事。

思えば最初は非常にフラットな軽いタッチで記事を書いていたものだと思い至る。

突如この文体になったようにも見えるが、もともとこの文体で文章を書くことも多く、自分としてはむしろ最初の記事の方が異質だと感じるほどにこの文体は自然なものなのである。

 

古めかしい…とは思わないが、新聞のようであり、しかし比喩や回りくどい表現を用いる様は昭和初期あたりの文豪のような文体と言われたら否定は出来ない。所謂、夏目漱石川端康成太宰治…のような時代であろうか。しかしこれらの文豪の作品も大して知っているわけでもなく、代表作をパラっと読んだことがある程度に過ぎない。ただこの文体で綴る自分の言葉は、一歩一歩噛み締めているようでどこか心地好いのだ。(だが後から見返したらまた叫びたい衝動に駆られるに違いない)

 

好きな作品もそのうち残したいと考えているが、ここで簡単に題名だけあげるのであれば夢十夜がやはり一番に浮かんでくる。何が言いたいのか、結局どうなったのか、何処が面白いのか、、語りようがない。今も昔も不思議な作品だ。

少し前に初めて斜陽も読んだ。あまりきちんとした内容は残っていないのだが、衝撃的で満足感があったというのが読了後の感想だった。

 

この文体の大元は何処か。

そう問うとやはり浮かんでくるのは読書家だった小学生の自分の姿だ。図書館に通い詰め、親の本棚を漁り、登下校休み時間構わず本を読んでいた気がする。

いまの文章ほど比喩や回りくどさは無いにしろ、当時から〜ですます調で物を書くというのはあまり慣れない作業であったのは記憶している。少なくとも高学年の頃には〜である〜であった等と、一際偉そうな文書を書く子どもであったろう。

日記帳の話と言い、小学校時代に受けた影響というのは大人の自分の根を形成する重要な時期だったのだと感じられる。

ふとその頃に戻りたいと思うこともあるが、いまその時代に戻ったとて、その頃のように熱中して何かに没頭することはないだろうと思う。そう考えると、その時代に文化に触れ、その感性を育んでくれた親や周囲の人と、自分に感謝を述べておきたい。